今日も「正解」のない日を過ごした。そういう日が続いているのではないでしょうか。なぜ今ここにいるのか、この時期に何の意味があるのか——答えが見えないまま、また夜になる。その「知れない」という感覚は、信仰が足りないからではありません。聖書はそれを、人間の構造として語っています。
天の下では何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えたものを引き抜くのに時がある。
——伝道者の書 3章1-2節
「知りたいのに知れない」は、あなたの弱さではない
伝道者の書はこう言います。
神は人の心に「永遠への思い」を与えた。この先に何があるか知りたい、自分の歩みの全体像を見たい——その渇望を、神ご自身が人に植えつけた。
でも同時に、こうも言います。人は神のなさることを、始めから終わりまで見極めることができない、と。
知りたい気持ちは本物です。でも全体は見えない。この「宙吊り」は、あなたが特別に弱いから起きているのではありません。それが人間の構造だと、聖書ははっきり言っています。
「今この時期に、いったい何の意味があるのか。」
その問いを持ちながら生きることは、信仰の失敗ではありません。それは、神に「全体を見せてほしい」と焦がれている人間の、正直な姿です。
先が見えなかった男の話
ヨセフという人物がいます。
兄弟たちに憎まれ、奴隷として売り飛ばされた男です。行き着いた先では、身に覚えのない罪を着せられて牢に入れられました。何年も、です。
彼はそこで「神の計画が見えた」から耐えたのではないと思います。全体は彼にも見えていなかった。それでも、その場の責任を果たし続けた。見えない中で、今いる場所で、できることをした。
その後、誰も予測できなかった形で、ヨセフの人生は動きます。牢の中で出会った人物の口から、彼の名前が王の前に届く。異国の地で、思ってもみなかった責任を任される。そして最後には、憎しみ合っていた兄弟たちとの和解が起きる。
「あの奴隷売買が、この和解に繋がっていた。」
後から見て初めて、そう言える話です。当時の彼には、到底そうは見えなかったはずです。
「時にかなって美しい」の意味
伝道者の書の11節はこう言います。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
この「美しい」という言葉は、静止した絵画のような美しさではありません。ストーリーの美しさです。登場人物があり、出来事があり、会話があり、展開がある——その全体を通じて初めて見えてくる調和の美しさ。
ヨセフの物語がそうです。奴隷として売られた場面だけを切り取れば、美しくもなんともない。でもその先まで含めたストーリー全体を見ると、一つとして無駄な場面がなかったことがわかる。
今あなたが見ているのは、まだ物語の途中の一場面かもしれません。「なぜここにいるのか」という問いへの答えが、まだ書かれていない可能性があります。
見えないことは、ない、ということではありません。
神のなさることは一貫している、と伝道者は言います。最初から最後まで見極めることはできない。でもその見えない時間の中でも、神の働きは変わらない。始めから終わりまで、同じ方向へ向いている。
知れないまま、今日を生きることは、降伏ではありません。まだ見えていない全体を、信頼している、ということです。
考えてみましょう
今の自分の時期に、もし一つ名前をつけるとしたら、どんな言葉が一番近いでしょうか。
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