どんなに考えても、答えが出ない問いがある。「これだけ頑張ってきたのに、何が残るのか」——そんな言葉が、夜になると戻ってくることはありますか。
空の空、伝道者は言う、空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の役になろう。
賢く考えれば考えるほど、苦しくなる
伝道者の書を書いたのは、あらゆるものを持った人間でした。
知恵がありました。財産がありました。権力がありました。何不自由なく生き、注意深く、合理的に歩んできた人間です。それでも彼は言います。「知れば知るほど、苦悩が増えた」と。
賢く生きようとすれば、見えなくてよかったものが見えてくる。努力すれば、努力が報われない現実が見えてくる。正しく生きようとすれば、正しい人が報われない場面が見えてくる。
「これもまた風を追うようなものだ」と彼は言いました。
風は追っても、つかまえられない。どんなに一生懸命走っても、風は常に向こう側にある。労苦の実は残らない。後世に渡していくだけだ。正しい人が報われず、悪人が栄えることもある。結局は死んで消えていく。
彼はそれを「虚しい」と言いました。嘘をつかずに。
聖書は「前向きになれ」と言わなかった
聖書が正直だと思うのは、ここです。
「信仰があれば大丈夫」とは言わなかった。「感謝すれば道が開ける」とも言わなかった。「今いる場所に意味がある」という結論にも急がなかった。
伝道者の書は、虚しさをそのまま書きました。労苦が残らないことを、正直に書きました。賢く歩もうとすると苦悩が増えることを、隠さずに書きました。
それは弱さではありません。聖書がそれを書いたのは、その虚しさが本物だからです。
人間は有限です。命に限りがあり、力に限りがある。行ける場所も、できることも、限られている。その限界の中で生きているから、どこかで「これだけか」という感覚が来る。それは人間が正直であることの証拠です。
「虚しい」と感じることは、信仰の薄さではない
「娘はかわいい。それは本当。でも、それだけで十分かと言われたら——わからない。」
そう感じる自分を、責めたことはないでしょうか。
「信仰があれば満ち足りるはずだ」「今ある恵みに感謝できれば、もっと楽になれる」——そんな言葉が、内側から来ることがある。でも伝道者は、その「虚しい」という感覚を書き留めました。それを消そうとしませんでした。
使われていない知性が錆びていく恐怖。名前ではなく役割として呼ばれる日々。「選んだのか、選ばされたのか」という問いが夜ごとに戻ってくること。
それを「虚しい」と感じることは、信仰の問題ではありません。人間として、正直であることです。
聖書が虚しさを直視したのは、その先に何かを指し示すためでした。でもそこへ急ぐ前に、まずこれだけは言えます。
あなたが感じている「これだけか」という問いを、聖書は否定しませんでした。
考えてみましょう
「合理的に考えてきた。それでも答えが出ない」と感じる問いが、あなたの中にあるとしたら——それは、あなたのどんな経験から来ているでしょうか。
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