自分で選んだのか、選ばされたのか。愛した人についていった。でも「ここに来るつもりだった」とは言えない——そんな問いを抱えながら、今日もここにいるあなたへ。「何を願うか」と神様に問われたら、あなたは何と答えますか。
この願い事は主の御心にかない、ソロモンがこのことを願ったからである。神は彼に言われた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵の命をも求めず、むしろ自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今私はあなたの言った通りにする。」
——列王記第一 3章11節
「王になろう」と「王となる」のあいだ
聖書には、同じ王座をめぐって対照的な二人の人物が登場します。
一人はアドニア。ダビデ王の息子で、年齢も家柄も申し分ない。父から「あの子は素晴らしい」と言われ続けた、誰もが認める存在でした。老いた父を見て、彼は野心を抱きます。「私が王になろう」。
もう一人はソロモン。アドニアとは別の母から生まれた、年下の弟です。アドニアのように自ら動いたわけではありません。神の選びと預言者たちの言葉によって、気づけば王座に就いていた。
この二人の違いは、立場の違いではありません。「王になろう」と自ら勝ち取ったのか、「王となる」と定められたのか——その違いです。
ソロモンは王となって最初に神様に問われます。「あなたは何を願うのか」と。
ソロモンが求めなかったもの
王座についたなら、まず何を願いたいでしょうか。
長く生きたい。もっと豊かになりたい。敵を退けたい。自分のために安全を確保したい。そう思うのは、人間として自然なことです。
でもソロモンは、そのどれも願いませんでした。
彼が言ったのはこうです。「私は小さい子どもで、何をすべきかわかりません。あなたの民はあまりにも多くて、私には手に余ります。どうかこの民を正しく治めるために、善悪を聞き分ける心を与えてください」と。
彼が求めたのは、自分のための何かではありませんでした。目の前にいる、託された人々のために必要なものでした。
これを「使命」と呼びます。日本語で書くと「命を使う」。英語のmissionはラテン語で「遣わされた者」という意味です。どちらの言葉も、自分のために勝ち取るものではなく、与えられた責任として担うものを指しています。
「与えられた場所」と「問いを持つこと」は矛盾しない
ここで正直に言わなければならないことがあります。
「与えられた使命を責任として担いなさい」という方向に、この話を終わらせることは簡単です。でも、それはある種の人には届きません。
「ここにいるのは召されたからだ」と心から言える日と、「ついてきただけだ」と感じる日が、両方ある人に。
ソロモンの話で注目したいのは、彼が「喜んで王座を受け入れた」と聖書が語っているわけではない、という点です。彼は「私は小さい子どもで、術を知りません」と言った。歓喜ではなく、率直な戸惑いから始まっています。
「この場所で私に何ができるのかわからない」。その問いを神様の前に出したとき、神様は彼を責めませんでした。むしろ「あなたがそれを求めたことが、私の心にかなった」と言ったのです。
答えを持っていることが信仰の証明ではありません。「何を願うか」という問いを、正直に神様の前に持ち出せること。それがこの場面で起きていたことです。
今、あなたが「自分はここで何を願っているのか」という問いの中にいるなら——それはすでに、ソロモンが神様の前に立ったときの姿と、同じ場所にいるのかもしれません。
考えてみましょう
もし今夜、「あなたは何を願うか」と問われたとしたら——長寿でも富でもなく、あなたが本当に必要としているものは、何でしょうか。
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