一人でいることの孤独は、誰にも言えないまま深くなることがある。長い旅の道を、一人で聖書を読みながら進んだ人が、聖書にいる。答えを探しながら、でも一人ではわからなくて。その人に、神は人を遣わした。
「導く人がなければどうして分かりましょう」
「分からない」と言えた人のこと
一人では、分からない。
そう正直に言えた人が、聖書にいる。エチオピアの女王に仕える役人だ。国のナンバー2といってもよい地位にあった人だ。それだけの人が、遠いエルサレムまで礼拝のために旅をして、また一人で帰る長い道を行く。
馬車の中で、イザヤ書を声に出して読んでいる。でも意味が分からない。誰かに教えてもらいたい。でもそれを言える相手が、そこにはいない。
礼拝に行っても、帰り道は一人だ。信仰はある。でも、一人ではうまく解き明かせない。
その孤独が、どんなものか。
ピリポが近づいて声をかけた時、役人はすぐに言った。「導く人がなければどうして分かりましょう。どうか来て、一緒に座ってください。」
「分からない」と認めることは、弱さではない。それは正直さだ。そして神は、その正直な声に、人を遣わした。
口を開かなかった子羊のこと
役人が読んでいたのは、こういう言葉だった。
「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また黙々として毛を刈る者の前に立つ子羊のように、彼は口を開かなかった。」
あってはならないことが、起きた。正しい裁きもされずに、黙々と連れていかれた。誰もがその時代のことを、普通の顔で語れなくなった。
役人は問う。これは、いったい誰のことですか、と。
ピリポはこの箇所から始めて、イエスのことを伝えていった。十字架を前にしても口を開かず、正しい裁きも受けないまま、屠られる羊のように静かに死へと歩いていったイエス。あってはならないことが起きた。でも神は、その沈黙の死の中に、救いを拓いた。
なぜ、こんなことが起きるのか。なぜ、こんな終わり方になるのか。その問いに、神は簡単な答えを返さなかった。ただ、その痛みの真ん中で、救いを開いた。
水のほとりで
話しながら、馬車は進んでいった。
そして、水のあるところに来た。役人は言った。「ご覧なさい、水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か差し支えがあるでしょうか。」
馬車が止まった。二人は水の中に降りていった。バプテスマが授けられた。
そしてピリポは、突然連れ去られた。役人はそれから後、ピリポを見なかった。長い帰り道は、また一人だ。
でも、役人は喜びながら帰っていった。
一人であることは変わらない。長い道のりも変わらない。でも何かが、変わっていた。水のほとりで受け取ったものが、その人の中にあった。
神は、一人で長い道を行く人を、見ていた。「分からない」と言えた声を、聞いていた。そして人を遣わし、水のほとりまで共に来た。
あなたが一人でページを開く今日も、神はその声を聞いている。「分からない」と言える正直さの中に、神は来る。
考えてみましょう
今日、あなたが一人では解き明かせないでいることを、神に正直に言えるとしたら、どんな言葉になるだろうか。
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