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孤独を感じながら「私はここにいていいのか」と思う朝がある。選んだはずの場所なのに、根が張れない感覚。あなたのそのリアルは、初代教会のある場面と、静かに重なっています。
「神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、神を畏れかしこみ正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。このイエス・キリストはすべての人の主です」
「正しい場所にいる人」だけが、神に見えているのか
「主にとどまる」とはどういうことか。
使徒の働き10〜11章を読むと、答えがそこにある気がします。
場所でも、形式でも、出自でもない。
ペテロはヨッパの屋上にいました。なぜそこにいたのか、聖書は詳しく書いていません。ただ彼は、お腹をすかせて、眠くなりかけながら、屋上に登った。「祈ろうとして」。
整えられた礼拝堂ではありません。準備の整った心でもありません。
神は、そこに来た。
コルネリオはカイザリヤにいました。ローマの百人隊長として配属された場所に。自分で選んでそこにいたかどうかはわかりません。でも彼は「いつも神に祈りをしていた」。その場所で。
二人とも、「正しい場所」にいたわけではなかった。それでも神は、この二人を結びつけた。
「ここに意味がある」と信じることとは、少し違う
アンティオキアという街で、予期しない形で教会が生まれたとき、エルサレムはバルナバという人物を送り込みました。「確かめに来た」人が、見たのは何だったか。
「神の恵みを見て、喜んだ」と聖書は書いています。
チェックしに来た人が、喜んだ。
そしてバルナバはこう言いました。「心を固く保って、主の恵みにとどまり続けてください。」
「ここに意味がある」とは言わなかった。「がんばれ」とも言わなかった。「あなたのやり方を変えなさい」とも言わなかった。
ただ——主にとどまっていることを、続けてください、と。
この場面で気づくことがあります。「主にとどまる」ということは、「この場所に意味がある」と信じることとは、少し違うのかもしれない。
場所の意味は、まだわからなくていい。
ただ、この場所で、主に向かっていること。それが「主にとどまる」ということではないか。
望んでいた場所ではない場所にいる人へ
神は偏ったことをなさらない——この言葉が、初代教会の人たちにとってどれほど大きかったか。
彼らは長いこと思っていました。「正しい場所・正しい形式・正しい出自を持つ人だけが、神に受け入れられる」と。
神はその思い込みを、何度も、丁寧に、くずしていきました。
コルネリオの話。アンティオキアの話。そのたびに問いが来る。こんな場所にいる人にも、神は働くのか。そのたびに答えが来る。神は偏ったことをなさらない。
望んでいた場所ではない場所にいる人も。予期していなかった形で今日を生きている人も。「なぜここにいるのか」という問いを、まだ手放せない人も。
ペテロは眠りかけていました。それでも、屋上に向かっていた。神は、眠りかけているペテロのところに来た。
「召されたのか、流されたのか」という問いの答えが出ていなくていい。「この場所に根を張れているのか」が確かめられなくていい。
主に向かっていること——それだけで、神はすでにあなたを見ている。
考えてみましょう
「主にとどまる」とは、場所の意味を納得することとは別だとしたら——今日あなたが「主に向かおうとしている」のは、どんな瞬間ですか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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