自分がちゃんと歩んできたのか、ふとわからなくなる夜があります。
使命を果たしたとか、誰かの人生を変えたとか、そういう大きな話ではなく、もっと静かな問いとして。
あなたにも、そんな夜がありますか。
あるいは、問いにすらならないまま朝を迎えることのほうが多いかもしれません。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されています。その日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。(テモテへの手紙第二4章7〜8節)
一日を歩んだことは、ちゃんと数えられている
何かを成し遂げたかどうかより、自分がちゃんと歩んできたのかどうかのほうが、ずっと重い問いに感じることがあります。
誰かの役に立てたか。
何かを残せたか。
あの選択は正しかったか。
問いは夜になるほど、静かに深くなっていきます。
「やめておけばよかった」とは書かなかった
パウロは、死を前にしていました。
ローマの牢獄の中で、体が衰えていくのを感じながら、愛する弟子テモテに手紙を書いていたのです。
「あの時違う道を選んでいれば」とは書きませんでした。
「やめておけばよかった」とも書きませんでした。
彼が書いたのは、ただこの一行です。
「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した」と。
後悔でも、勝利宣言でもない。
死を前にした人間の、静かな確信でした。
主役ではなく、添えられる側にいた
そのパウロが、自分の命をこんな言葉で表しています。
「注ぎの供え物」と。
これは、祭壇で生贄が捧げられるとき、そこにそっと振りかけられるぶどう酒のことです。
主役ではありません。
舞台の中心に立つ存在でもありません。
誰かの捧げものに、添えられるものとして注がれる、その役割です。
華やかではない。
でも、確かにそこにあった。
確かに、捧げられていた。
表舞台ではなく、誰かのそばに添えられるように歩んできたあなたの一日一日も、その「添えられる」捧げとして、パウロが確信を持てたのと同じ方に、今日もちゃんと数えられています。
あの日の選択も、今日の祈りも、誰にも言えないまま抱えてきた心配も、すべて。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
「注ぎの供え物」という言葉、最初に読んだとき、僕は少し立ち止まりました。
主役じゃなくていい、添えられるものでいい、というのは、諦めではなくて、別の種類の確信なんだと思います。
今日の問いはこれです。
今日、あなたが誰かのそばに添えられていたとしたら——それはどんな場面だったでしょうか。
あるいは、まだ気づいていないだけで、すでに添えられていた瞬間があったかもしれません。
《参考礼拝メッセージ》
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