どうも、あなたのサーバント中澤信幸です。
2018年9月27日木曜日、第419回目の放送です。
十字架につけられたイエス・キリストのことばを紹介します。
Podcast: Download (Duration: 6:32 — 4.5MB)
十字架にかけられたイエス・キリスト
イエス・キリストの歩みが、新約聖書の中に書かれています。多くの不思議な御業を行いました。権威ある教えを説きました。それにもかかわらず、当時の宗教的な指導者たちの妬みをかって、十字架にかけられることになってしまいました。十字架というのは、当時の最も忌まわしい死刑の道具です。
その木にかけられるとき、イエスは十字架上でこう言ったのでした。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
十字架の残酷さ
神のひとり子とされるイエス・キリストが神に見捨てられて、十字架にかかる。これほどまでに残酷なシーンはありません。十字架そのものが残酷であるだけではありません。神に見捨てられる、ということの残酷さです。
イエスは、どうして、と問います。その答えは、非常に残酷なものです。あなたの命と引き換えに、全ての人のを救うためなのだ。つまり、確かにあなたを見捨てるのだ、という答えです。なぜ、どうしてと問うたとき、「いや、わたしはあなたを見捨てない」という答えをある意味では期待するでしょう。見捨てないでください、という嘆き、願いです。
しかし、神はひとり子であるイエスを見捨てて、死に渡し、引き換えに全ての人を救おうとされたのです。それを感じ取ったイエスの真実な叫び、それが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばでした。
神の思いにあわされて
このとき、イエス・キリストは、あのゲッセマネの園で「神の御心のとおりになさってください」と祈った、その思いにもう一度立ち返っていきます。つまり、神が自分の命と引き換えに全ての人を救おうとしている、私もその思いにあわされて自分の命を差し出そう。これによって、全ての人が救いに導かれるのだ。そのためならば、私もこの命を神の御手に喜んで差し出そう。事実、この後イエス・キリストは、「わが魂を御手に委ねます」と言って、息を引き取るのでした。
この十字架こそが、キリスト教の中心に据えられているメッセージです。神もひとり子をお見捨てになるほどの苦痛を味わいながら、私を救おうとされた。イエス・キリストも父なる神に見捨てられる苦しみを受けながら、私のために命を差し出された。それであれば、私はこの救いを受けよう。受けるのみならず、もし神が私をとおして誰かのためにと言うならば、その神の思いにあわされ、従って、私も誰かのためにと歩もう。それが、この十字架のメッセージの中心点です。
私も誰かのために
神が私たちのために、私もそれを受けながら、誰かのために。「どうして私をお見捨てになったのですか」というような苦痛を味わうこともあるでしょう。誰かのために犠牲を払う、自分の物を差し出すとき、私たちには痛みや葛藤があります。それにもかかわらず、神の思いにあわされて、歩みを神の御手に委ねます、と選びとりたいものです。
それが、十字架が指し示す歩みではないでしょうか。
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