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毎日、誰かのために動いて、誰かのために笑って、夜になってようやく一人になる。そのとき「できていないところ」を数えてしまうのは、あなただけではないかもしれません。神はどんな見守りのまなざしで、あなたを見ているのでしょうか。
テサロニケ人への手紙第二 3章3〜4節
主は真実な方ですから、あなた方を強くし、悪いものから守ってくださいます。私たちが命じることを、あなた方が現に実行しており、これからも実行してくれることを、私たちは主にあって確信しているのです。
神はチェックリストを持って、あなたを見ていない
神様が採点表を手に持って、「できてる、できてない、できてない、できてる」と一つずつ確認しているとしたら——そんな目で見られているとしたら、誰でも隠れたくなります。
でも、聖書が語る神のまなざしは、そういうものではありません。
転んでも「2歩も歩けた」と言う親のまなざし
考えてみてください。
つかまり立ちをしていた赤ちゃんが、手を離して1歩、2歩と踏み出す。そしてぺちゃんと座り込む。
そのとき、親は何と言うでしょうか。「足の力が足りない」「もっとまっすぐ踏み出さなきゃ」とは、言いません。「2歩も歩けた。すごいね。もう1回やってごらん」と言います。転んだことよりも、歩けた2歩を見ている。
神が私たちに向けているまなざしも、これと同じだとパウロは言います。
私たちが不完全であることを知りながら、それでも成長していくことを願いながら、前へと導こうとしている。そういう目で見ていてくださる、と。
幼稚園で、転んで泣いている子どもに「大丈夫、またやってごらん」と声をかけるとき——あなたが子どもに向けているそのまなざしを、神はあなたにも向けています。
「静かに自分の分を歩む」は、責める言葉ではない
同じ手紙の中で、パウロは「締まりのない歩み方」という言葉を使っています。
それは怠けているということではありません。他の人のことが気になりすぎて、自分に与えられた分が見えなくなっている状態のことです。「あの人のことが心配、この人のことが気になる」と動き回るうちに、自分の本来の歩みが成り立たなくなっていく。
パウロが勧めるのは、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」ということです。
これは「もっとしっかりしなさい」という命令ではありません。「あなたに与えられた範囲がある。その分を、地道に、1つずつ。それがあなたの歩みだ」という承認の言葉です。
華々しくなくていい。誰かに気づかれなくていい。今日あなたが静かに果たしてきたその一つひとつを、神は「2歩歩けた」と見ていた——そういうことです。
できていないところをチェックされているのではありません。今日あなたが歩いた分を、温かく大きなまなざしで見ていた方がいる。その確信が、パウロの言う「主は真実な方」という言葉の中に込められています。
考えてみましょう
今日一日、あなたは自分のことをどんな目で見ていましたか。
そして神は、その同じ一日を、どんな目で見ていたと思いますか。
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