影のような私が、それでも立っていた

影のような私が、それでも立っていた

役に立てなくなったとき、無力感の中で「自分がここにいる意味が分からない」と感じたことはありますか。
あるいは、誰かのために何もできなかったと、夜ひとりで抱えていることがあるかもしれません。

「人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」
(詩篇144篇)

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儚いままで、それでも歌われてきた

何もできない、という感覚は、静かに重くなります。
誰かのために祈るしかない、と思いながら、「祈るしかない」という言葉が自分の中でしっくりこない夜があるかもしれません。
手を動かしていても、それが届いていない気がする。
そういうとき、自分はここにいていいのだろうかという問いが、ふと浮かびます。

影のような存在が、それでも歌っていた

詩篇144篇を歌い継いできたのは、歴代の王たちでした。
力を持ち、民を率いる立場にありながら、彼らは自分のことをこう呼びました。
「人はただ息に似て、過ぎ去る影のようです」と。
それでも彼らは、神が自らの手と指を鍛えてくださると受け取りました。
そして最後にこう歌いました。
「幸いなことよ、主を己の神とするその民は」と。
強いから幸いなのではありません。
栄光があるから幸いなのでもありません。
息に似て、影のようなものであることを知りながら、それでも神に向かって立っていること——それが幸いだと、歴代の王たちは歌い続けたのです。

影が落ちるとき、何かがそこに立っている

影というのは、実体ではありません。
光と実体の間にできる、もうひとつの形です。
影だけが単独でそこにあることは、ありません。
影が地に落ちているとき、そこには必ず何かが立っていて、光を受けているということを意味しています。
「自分は影のようなものだ」と感じる瞬間も、実は同じかもしれません。
影が見えるということは、何かがそこに立っているということです。

あなたが感じている無力感は、ひょっとしたら——

光の前に、あなたがいるということです。

何もできないまま、ただそこにいるだけと感じているその場所で、あなたという影は確かに落ちています。
それはあなたが、光の前に立ち続けていることの証かもしれません。
歴代の王たちが「息に似て、過ぎ去る影のようです」と歌いながら手と指を鍛えられていったように、あなたの立っているその場所も、神の計画の中にあるのかもしれません。
影のまま、それでいい——そう静かに語りかけるのが、この詩篇の言葉です。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

「影のようなものだ」という言葉を聞いたとき、僕は最初、それは自分を低く見ることなのかな、と思いました。
でも、影が落ちるということは、そこに何かが立っているということなんですよね。
それを知ったとき、何もできないまま立っている、ということの意味が少し変わった気がしました。
今日の問い——あなたは今、「何かをしている自分」として立っていますか。
それとも、「ただそこにいるだけ」と感じながら立っていますか。
どちらであっても、影は落ちているのかもしれません。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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