「信仰の不足」という言葉を聞いて、あなたはどう感じますか。「自分には関係ない」と思うかもしれません。でも、この言葉は2000年前に書かれた手紙の中に出てきます。そしてその文脈は、驚くほど現代的です。
聖書箇所:1テサロニケ3:10-13
私たちはあなたがたの顔を見たい。その理由は、信仰の不足を補いたい。
私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ち溢れさせてくださいますように。
あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神のみまえで、責められるところのないものとしてくださいますように。
「新しい情報」を求めていたわけではなかった
パウロはテサロニケの信者たちに会いに行きたいと言いました。
理由は「信仰の不足を補うため」です。
でも、これは誤解しやすい表現です。パウロは「新しい教え」を届けたかったわけではありません。次のレベルの知識を与えに行こうとしていたわけでも、ありません。
彼が伝えたかったのは、もう一度「同じ言葉を届けること」でした。
それも、ただ繰り返すのではありません。苦難を経験した後の、今の状況で。離ればなれになった、この時期に。同じ言葉を聞くと、前回とは違う響きで届く。あの時は気づけなかった意味が、急に深くなる。「繰り返し聞くことで、言葉が育つ」という考え方です。
これは重要な逆転です。
「整ったら動く」「準備ができたら始める」という思考は、情報の蓄積が「ある閾値を超えたら動ける」という前提に立っています。でもパウロが考えていたのはそうではなく、「歩みながら言葉を受け取る」というサイクルでした。今の不完全な状態こそが、言葉を受け取る場所だ、という考え方です。
「信仰の不足」とは、欠陥の診断ではありません。歩みの途上にある、という状態のことです。
ルールが人を縛り、愛が人を活かす
パウロはもう一つのことを祈りました。「愛が増し、満ち溢れるように」と。
ここに律法との対比があります。
ルールは人を縛ります。「このレベルに達しないと名乗ってはいけない」「実績が出てから請求すべきだ」「整ってから動くべきだ」——これらはすべて、内側から人を縛るルールです。
一方で愛はどうか。愛は人を活かすとパウロは言います。
無料でアドバイスを続けるとき、何が起きているでしょうか。喜ばれます。でも帰り道、どこか虚しい感覚が残ることがある。それはなぜか。「承認のために動いている」と自分の一部がわかっているからかもしれません。でも同時に、本当に誰かの力になりたいという回路も、そこにあります。
その二つは別物です。承認のための行動と、愛から出た行動は、外側から見ると同じに見えても、内側での手触りが違う。「虚しさ」は、その違いを教えてくれるサインである可能性があります。
失敗も含めた「1本のストーリー」
パウロが最後に祈ったのは、「責められるところのないものに」ということでした。
これを聞いたとき、多くの人は裁判のイメージを思い浮かべます。神の前で一つ一つの過ちを問われる。あの時あなたは何をしたのか。何年何月、あの場面では——。
でもパウロが描いたのは、まったく別の場面でした。
あなたの人生が1本のストーリーとして映し出されます。生まれた時から、失敗を繰り返し、それでも歩んできたすべてが映る。その隣で神が、「よくやった」と言う日が来る。
表彰台。婚礼のパーティー。そういう言葉で、パウロはその日を描きました。
「足りないこの私が、どれほど赦され、用いられてきたか」——それを見返す日です。スタンフォードの学位も、収入の不安定さも、誰にも見えないところでの無数のやり取りも、全部含んだストーリーです。
その日から逆算したとき、今の「準備中」はどう見えるでしょうか。
考えてみましょう
今あなたを止めているのは「能力の不足」でしょうか。それとも、「十分になってから動く」という、自分自身が自分に課したルールでしょうか。
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