笑顔を続けながら、心のどこかに言えない言葉がたまっていく。その重荷を「これくらい普通」と押し込んだことは、ないでしょうか。聖書の中に、あなたより先にそれを神に言った人がいます。
「私だけではこの民全体を負うことはできません。私には重すぎます。」
(民数記11章)
モーセが口にした言葉
神に選ばれ、民を導いてきたモーセ。
そのモーセが、ついに神の前でこう叫びました。「私には重すぎます。こんな仕打ちをなさるなら、どうか私を殺してください。」
信仰の英雄が「殺してください」と言ったのです。弱さのせいではありません。追いつめられたのです。
モーセが負っていたのは、民全体の重荷でした。彼らの不満を聞き、食べ物を手配し、目的地まで連れていく責任。それを「まるで乳母が乳飲み子を抱えるように」と表現しました。
産んだ覚えもない。計画した覚えもない。でも抱えなければならない。そのどこにも降ろせない感覚を、モーセは神に向かって言葉にしたのです。
神はその声を聞いていた
神はモーセにこう答えました。「あなたのそばに立つ者を与えよう。一人で負わなくていい。」
目的地は変えませんでした。苦難をなくすとも言いませんでした。でも「一人で負わなくていい」と言ったのです。
神が用意したのは70人の仲間でした。モーセの重荷をわけて負う人たちです。「そこまで苦しんでいるなら旅をやめよう」とは言わなかった。でも「一人で抱えているその重さを、私は知っていた」と言ったのです。
「重すぎます」は、正直な祈りだった
モーセの言葉は不信仰ではありませんでした。神への訴えでした。
毎日誰かのために動いて、夜一人になってはじめて「なんでこんなに疲れているんだろう」と気づく。でもそれを言葉にする相手がいない。そんな夜があるとしたら、その感覚はモーセと同じところにあります。
「神様はわかってくださっている」と思いながら、「でも今夜はもう少し、誰かに聞いてほしい」と感じること。それは信仰が足りないのではありません。モーセがしたのと同じ、正直な訴えです。
あなたが今夜まだ言葉にしていない重さを、神は知っています。「重すぎます」と言える相手がいます。
考えてみましょう
今、あなたが「これだけは」と誰かに言いたいと思っている言葉があるとしたら、それはどんな言葉でしょうか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

コメント