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正しく伝えようとしてきた。誠実にやってきた。それでも何かが届かない、何かが変わらない——そんな疲れが、深夜にじわじわと滲み出てくることはないでしょうか。その疲れが「どこへ向ければいいかわからない」まま、胸の中に溜まっているとしたら。
彼らの叫びは神に届いた。神はその嘆きを聞かれた。神はイスラエル人をご覧になった。神は御心に止められた。
——出エジプト記2章
「正しくある」ことが、いつの間にか壁になる
聖書に出てくるイスラエルの民は、400年以上、同じ現実の中に置かれていました。
もともとそこは仮住まいのはずでした。飢きんを逃れ、たまたま縁のあった土地に身を寄せた。でも気づけば、そこが「日常」になっていた。逃げることも、変えることもできないまま、年月だけが積み重なっていった。
その中で彼らが上げた声を、聖書は「うめきわめいた」と表現しています。
「神様、助けてください」という、きれいな祈りではありませんでした。どこへ向けていいかもわからない、言葉にもならない声です。希望があったからではなく、希望を失った先から出てきた声でした。
そしてその声が——届いた、と聖書は言うのです。
「整った言葉」だけが、届くわけではない
出エジプト記が記しているのは、整った祈りが届いたという話ではありません。うめきが届いた、という話です。言葉にならない苦しさが、向け先もわからないまま漏れた声が——神の心の中に残った、という話です。
さらに興味深いのは、神が動き始めるとき何を「思い起こされた」かです。今の苦しい状況でも、その解決策でもありませんでした。「最初にこの民に与えた約束」でした。つまり「本来あなたはこういう存在だ」という、はじめの言葉を。
今見えている問題を処理するのではなく、「この人は本来どこにいるべきか」というところまで遡って、動き始めた。
誰にも言えない疲れ、説明のできない孤独、答えの出ない問い——そういうものも、届く。むしろ「こんなものを持っていっていいのか」と感じているものこそ、届くのかもしれません。整った信仰の言葉だけが、神に届くのではない。
正しくあろうとしてきた、でも何かが届かない、何かが変わらない——そのうめきごと、届く。聖書はそう言っています。
考えてみましょう
深夜、今日の自分を振り返るとき——頭の中を流れているのは「改善すべきこと」の列挙でしょうか。それとも、言葉にならないうめきでしょうか。その違いを、あなたはどう感じますか。
参考礼拝メッセージ
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