2年間、夜通し網を打ち続けた。でも何も入らなかった。そんな朝、あなたはどこに立っているだろうか。
「私たちは夜通し働きましたが何一つ取れませんでした。でもお言葉通り網を下ろしてみましょう。」
諦めて、網を洗っていた
ペテロは漁師だった。
仕事のプロだ。どこに魚がいるか、どの時間に網を打てばいいか、身体で知っている。その彼が、夜通し働いて、何も取れなかった。
言い訳のしようがない。経験も、努力も、時間も、全部使った。それでも網は空だった。
だから彼は諦めた。家族にどう話すか考えながら、重い気持ちで網を洗い始めた。もう終わりだ、と。
そこにイエスが来た。
「深みに漕ぎ出して、網を下ろしなさい。」
普通なら笑い飛ばす場面だ。大工の息子に、漁師の仕事を教えてもらう必要はない。しかもさっきまで同じ場所でやっていた。なぜ今さら。
でもペテロは言った。「お言葉通り、網を下ろしてみましょう。」
半信半疑だったと思う。確信があって動いたのではない。理由もよくわからないまま、もう一度だけ、漕ぎ出した。
「お言葉通りに」は、いつもと違う一歩だった
ペテロにとって「諦めて帰る」のがいつも通りだった。魚が取れなければ、終わり。それが現実だ。
「お言葉通りに」は、その現実の外に一歩出ることだった。自分の経験でも、自分の計算でも、自分の常識でもなく。
そして網がいっぱいになったとき、ペテロは一人で引き上げようとしなかった。「仲間の船に合図をして、助けに来てくれるように頼んだ」とある。
自分だけで全部を抱えることは、「お言葉通りに」ではなかったのかもしれない。
ペテロがひれ伏して「私のような者から離れてください」と言ったのも、その後だ。「これから後、あなたは人間を取るようになる」とイエスが語りかけたのも、その後のことだ。
何かが明らかになったのは、動く前ではなく、動いた先だった。
考えてみましょう
今、あなたが「諦めて網を洗っている」場面はどこにあるだろうか。そこに「もう一度だけ漕ぎ出してみなさい」という声が聞こえるとしたら、あなたはまず何に「お言葉通りに」と言うだろうか。
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