整ったのに、喜べない夜がある

整ったのに、喜べない夜がある

正しいことをやり遂げたはずなのに、喜べない。
そんな夜が、あなたにもありますか。
それとも、「喜べない自分がおかしい」と、その感覚をそっとしまいこんでいるかもしれません。

エズラ記に、こんな場面があります。神の宮の前でひれ伏しながら、涙ながらに祈って告白をしている人がいました。律法の学者、エズラです。
正しい教えを研究し、人々にそれを伝えることを自分の務めとしていた人物です。

目次

整ったのに、喜べない夜がある

できあがったのに、泣いている人がいた

長い年月をかけて、神殿がようやく完成しました。
工事は中断を強いられ、妨害があり、それでも建て続けてきた場所です。
外側はすべて整っていました。
かつて壊されたものが立て直され、器具がもとの場所に戻り、礼拝が再び始まりました。

そのできあがった神殿の前で、エズラはひれ伏して涙を流していました。

彼は喜べなかったのです。
外側が整ったことを見ていたのではありません。
そこに集まってくる人たちの内側が、まだ回復されていないことを見ていました。
建物は完成していても、そこに立つ人々の心の中はまだ途中でした。
だから彼は、嘆いていたのです。

誰かの嘆きが、私の嘆きになった

エズラは何も語りかけませんでした。
正しいことを教えたわけでも、問題を指摘したわけでもありません。
ただひれ伏して、涙ながらに祈っていました。

その姿を見た人たちが、次々と集まってきました。
そして彼らも涙を流し、神の前に出たのです。

興味深いのは、そのときの受け取り方です。
「エズラが嘆いているから」ではありませんでした。
「私たちはこうだから」でもありませんでした。
一人一人が、「私が」と自分のこととして受け取り、神の前に立ったのです。

誰かに言われたのではありません。
一人の人が、誰にも語りかけることなくひれ伏していた。
それだけで、周りにいた人たちの何かが動きました。

あの場にいた人たちも、最初はただエズラの姿を見ていただけでした。
ただそこにいた、ということが、あの場では起きていた。
それでも神の前にいようとしていた——それはすでに、何かを持っている人の姿だったのかもしれません。

誰かの嘆きが、そのまま自分の嘆きになっていく。
深夜に一人で問い続けているあの感覚は、もしかしたらエズラが神殿の前でひれ伏したあの場所と、そう遠くないところにあるのかもしれません。

正しく整えた外側の向こうに、まだ届いていない内側がある——その嘆きを持ったまま、ひれ伏す。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

エズラの話を聞いて、少し胸が痛くなりました。
できあがった神殿の前で泣いている人がいる、という場面が、妙に現実的に感じられたんです。
「ちゃんとできた」はずなのに、喜べない——それって、「外側」と「内側」がまだ別々のままだということなのかもしれないな、と思いました。
エズラは何も語らずにただひれ伏していた。
そのことが、周りの人を動かした、というのも、なんだか僕にはうまく説明できないんですけど、じんとくるものがあります。

あの夜のエズラの場所が、どこか遠くない気がした。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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