どうも、早起き牧師の中澤信幸です。
2017年6月22日木曜日、第99回目の放送です。
99回目にちなんだ、イエス・キリストのたとえ話を紹介します。
Podcast: Download (Duration: 8:06 — 5.6MB)
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2017年6月22日木曜日、第99回目の放送、お相手は中澤信幸です。
失われた一匹を探す羊飼い
イエス・キリストが話されたたとえ話の1つは、こんなことでした。100匹の羊を飼う羊飼いがいます。羊1匹1匹を大切に養っていました。その中の1匹が、なんといなくなってしまった。そのことを発見しました。その羊飼いはどうするでしょうか?おそらく残った99匹を人に任せて、自分は1匹の羊を探し求めて、荒野をかき分け、草やぶに入り、その1匹を見つけ出すまで必死に探すことでしょう。
そして、ついに1匹を見つけたならば、その1匹を大事に抱えて、そしてみんなのところに戻ってきて「いなくなっていたのが見つかったので、みんなで一緒に喜びましょう」と言って、盛大な宴会を催すに違いありません。それが、イエス・キリストが語った、たとえ話でした。
罪人の仲間になるのか
このたとえ話は、どんな場面で話されたのか?この場面はですね、イエス・キリストのもとに、なんかいつもと違う人たちがたくさん集まってきたときだったんです。イエスは、普通社会で後ろ指をさされるような、罪人と言われるような人たちと、一緒に食事をしていました。食事をするっていうのは、仲間になるということですね。私たちはテレビで見るような人たちが、普段そういう仲間たち一緒に食事をすることを知っています。一般の人ではなくて、ましてや後ろ指をさされるような人ではなくて、立派な人たちは立派な人たちと仲間になります。
イエス・キリストは、本来であれば宮を司るような祭司とか、立派な律法学者たちとか、そういう人たちと一緒に食事をすべきであろう人です。が、よりによって取税人という、ローマに税金を納めるためにユダヤ人たちから巻き上げていた人物ですとか、遊女といわれる売春婦ですとか、そういう人たちと一緒に食事をしていました。イエスは「あんな人たちと一緒に食事をして仲間になるのか?」と言われたとき、このたとえ話を話されたわけです。
探し求めるために来た
つまり、この意味は、私がいるのにふさわしいところは、まさにここではないか。私は99匹をおいて、一匹を探し求めに来たようなものなのだ。その1匹を探し求めて見つけることが、どんなに大きな喜びであるか、あなたがたも知っているだろう、と言ったわけです。
イエス・キリストは、これまでの歩みを責めて、結果を負わせるために来られたのではありません。一匹の羊を見つけたら、なぜいなくなったのか、きちんとしなければダメじゃないか、と叱るためではありません。あるべき場所に回復するため、連れ戻すために、探し求めに来たのです。これまでを責めるためではなく、これからの歩みをもたらすために来たのです。イエス・キリストは、私たちの必要を満たすために、ほんとうの必要を満たすために来られたのです。
私が迷ってしまっていても
あなたは、自分が迷い出た羊なのかもしれない、と思うことがないでしょうか。自分の本当の姿を見せつけられてしまったとき、私は失われた羊なのかもしれない。大きなところから迷い出てしまったかもしれない。本当に大切な事を見失ってしまったかもしれない。そんなふうに感じることはありませんか?
しかしそんなときでも、私はもう終わりだ、と思う必要はありません。その私を見つけに探してくれる方がいる。そういう私を探し求めて愛して止まない方がいる。このたとえ話は、そのことを教えてくれていますね。
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コメント
朝早くから「あさのば」ありがとうございます
聴覚障害などのかたたちのために、文字に起こしてくださっていることにも感謝です❗
柳田さん、コメントありがとうございます。
そうか、文字にしてあると、聴覚障害の方にもお届けできるのですね。
あまり考えもなく、することにしていましたが、
これからは、心をこめてお届けすることにします。
いつも聞いてくださって、感謝しています。