0172 教育とは生徒に対する、社会に対する大きな奉仕である

 

どうも、早起き牧師の中澤信幸です。

 

2017年10月10日火曜日、第172回めの放送です。

 

学校に行って将来のために勉強する、そのことをちょっと違った角度から考えてみましょう。

 

 

[note]

2017年10月10日火曜日、第172回目の放送、お相手は中澤信幸です。

 

教育におけるサーバント・リーダーシップ

ロバート・K・グリーンリーフが書いた「サーバント・リーダーシップ」の本から、いろいろなことをお伝えしています。今回からは、教育の中でのサーバント・リーダーシップについてお話ししたいと思います。

 

先生から生徒へ知識の伝達

教育、それは人にものを教えることですね。大前提としてあるのは、知識を持っている人、つまりこれが先生です。知識を持っている先生から、知識を持たない人、これが生徒ということになりますね。知識を持っている先生から、知識を持たない生徒へ知識を伝達する。これが教育と言うことになるでしょう。ゴールはその人が今ある生活よりも良い生活をすることができるように、そういうことがゴールになっていると思います。

 

課題1 先生が完全な者と想定されること

ロバート・K・グリーンリーフは、その教育について2つの課題を指摘するんです。ひとつは、教える側が完全な者であると想定しがちである、ということです。先生というのは知識を持っている側、教える側ですから、不完全ではない。完全であって良い人であって、そのことをよく教えることができる、と言う大前提で成り立っています。

でも、グリーンリーフが言うのに、そういうふうに完全な存在だとされているところに限って、モラルの低下が起こりやすいというのです。聖職というふうに言われるような人たちの中に、問題が起こりやすいというのは、よく指摘されることです。

例えば牧師という立場についても、同じことがいえます。この人は素晴らしい人だと言われて、人から尊敬されるようになる。すると、その人のことをチェックする人がいなくなる。好きに、自由にできるようになる。人は好きに自由にできるようになったときに、自分勝手な、人には見せないような欲望に従って行動する。そのことによってモラルが低下する。モラルが低下しても、誰もそれを指摘する人がいない。悪循環でさらにモラルが低下していく。

学校、教師というところにも、そのことが起こりやすいのではないか、というのが、グリーンリーフの指摘のひとつです。

そういう中では、私が完全な存在ではないと先生が認められることが必要です。お互いに自分が完全な者として教えるのではなくて、欠けはあるけれども、お役に立つように、と教える。役に立つように、仕える気持ちを持って教える。そういう精神を養うような、学校の風土が必要だよねっていうんです。上に立つ者に対して、奉仕の精神を養うような、そういう風土、機構、そういったものが学校に求められる。これが1番目の課題と、その解決に向けたことです。

 

課題2 学びたくないものが学ばされていること

2番目は、学びたくない者も、学ばざるを得ないような環境に、今あるじゃないか、ということですね。

義務教育というものがあるので、その期間は基本的に学校に行かなければいけない。学校に行って学ぶべきことを学びなさい、っていう強制力ですね。日本もそうですけれども、学歴がそれなりに重んじられる中で、高校にも行きなさい、さらにその先の学校にも行きなさい、そういうことによって、将来のこと、生活が守られたり、職業が良いものになったりするでしょう、っていう。そういう前提でことが成り立っています。

すると、学校には必ずしも学びたくないけれども、行かざるをえなくて来ていると言う人が多く出てくるわけです。学ぶということが必要だと思って学ぶ時に、やっぱり一番効果的な学習ができるわけですよね。英会話の学校とか、大人になってから行くじゃないですか。学ぶ必要があって学びたいと思って。そんなの中学校でやったじゃないか、って。なんであのときにやらなかったんだ、っていうと、あの時はやる意味もわからなかったし、必要もなかったし。でも、今こういうことになって、必要だから学びたいと思うから、わざわざお金を出して学校に行く。なんかちょっとちぐはぐなことが起こってくるわけですね。

教育というのは、学びたい人が学ぶものであって、学ぶ人が自分の現場の中でよりよい歩みができるように、学んでいくのがいいんだろうと思うんです。社会が決める、あるいは周りの人が決める、あなたはこういう人になるべきなんだ、だからそのためにこれを学んで、そういう人になりなさい。それは違うんだろう、と思うんです。

本の中に例として出てきたのは、貧しい村から出てきた青年を勉強させた結果、どうしたいのか。彼の生活が貧しい村から抜け出て、町の中で上流階級の生活を手にできるような学びを提供する、それが本当にゴールなのか。いや、むしろ彼が貧しい村に戻って、そこで影響力を持って人々の生活を底上げしていったり、周りの人々を豊かにしていくために用いられるような、そういう彼のゴールのために、仕えるのが教育ではないか、と言うんですね。

学びたい者に合わせること、彼のためのゴール、彼女のためのゴールに仕えるものであること、そういうことですね。

 

教育とは奉仕である

私の感想です。このことを読みながら、教育というのは奉仕なんだ、ということがよくわかりました。私も、人を育てるとかですね、この人をこういうふうにという指導をしなければいけないことがいくつかあります。そのときに、やっぱり私が思い描いているのは、この人をこういう形にしなければいけない、90点まで引き上げなければいけない、そんなふうに考えてしまいがちです。

その人のためという観点から、奉仕の思いを持って、お役に立つように、その人が整えられるように、その人が最大限の能力を身につけることができるように、そういう気持ちで接したことって正直あんまりなかったなぁと思うんです。できないことをやれるようにするっていう思いしかなかったですね。

ですので、自分自身の反省というかですね。本人のためにいちばんいいこと。そういう学びはなんだろうか。その思いを、自分の中で忘れないようにしなければいけない、と。教育というのは、相手のための奉仕であり、そのことは、ひいては社会のための奉仕にもなっているんですね。

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中澤信幸(キリスト教牧師✕ライフコーチ)

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コメント

  1. katsu より:

    サーバントリーダーシップの学びは信仰と会社の仕事を共通のプラットフォームで考える私にとってとても良い機会と思って毎週期待して聞いています。
    数年前に部下の課長の育成を担当した時に育成目標を掲げ、本人と対話をしながら取り組むのですが、本人の意向よりも課長として求められるコンピテンシーやスキルレベルを提示して、現在の本人の状況とのギャップを埋めるというやり方でした。野心家の数20%の優秀な方はこれで育つのですが、そうではない方は、プレッシャーによるストレスで、傷ついてしまうことがあります。
    今日のお話のように奉仕する心で対峙していたらどれだけ違っていたか、思い起こさせられます。
    私のコメントも長くなってしまいました。
    ノイズフリーのクリアな放送ありがとうございました。