端に立っているのは、弱いからじゃない

毎日、誰かのために動いている。
でも、誰かに気づかれるわけでも、特別な場所にいるわけでもない。
そんなとき、「私がここにいることに、意味はあるのだろうか」と思うことはないでしょうか。

聖書箇所:

「マリアは言った。本当に私は主のはしためです。どうぞあなたのお言葉通りになりますように」
(ルカの福音書1章38節)

目次

神の業は、端の場所から始まった

マリアは「はしため」と自分を呼びました。

「はしため」という言葉は、漢字で書くと「端女」。
中心にいてすべてを仕切る人ではなく、端の方で静かに仕えている人。
そういう意味の言葉です。

もう一つの書き方は、女偏に「卑しい」という字。
「私は小さな者です。取るに足らない者です」——そういうことを表す言葉です。

マリアはその言葉を、みずから選んで使いました。

でも、神はその「端の場所」にいるマリアを選んだのです。
立派な家柄でもなく、特別な地位があるわけでもない。
婚約中の若い女性を。

そして、全人類に関わる出来事を、その人を通して起こされました。

知らせの「半分しか聞けていない」としても

マリアに御使いが告げたとき、彼女は戸惑いました。

「どうしてそのようなことになり得ましょう」。

神が語りかけた言葉の全体像は、まだ見えていなかった。
未婚の母になるという事実が頭を占めてしまって、「この子が救い主となる」というその先が、心に入ってこなかった。

それは弱さではありませんでした。
ただ、人間には当然のことでした。

老夫婦のザカリアとエリザベスも、同じでした。
子供が与えられるという喜びに心の9割9分が占められて、その子が神の業のためにどう用いられるかは、二の次になっていた。

誰もが、知らせの「半分しか聞けていない」状態で、そこにいたのです。

状況が変わったから、賛歌を歌ったのではない

それでも、この話には変わり目があります。

マリアはその後、賛歌を歌います。
「神が私に大きなことをしてくださった」と。

でも、その時点でマリアの状況は変わっていませんでした。
未婚のまま子を宿すという現実は、そのままです。

何が変わったのか。

それは38節の、あの一言です。
「どうぞあなたのお言葉通りになりますように」。

神の業が進んでいく。
私はその端の場所に立って、仕えていく。
——そう委ねた瞬間に、彼女の内側から賛歌があふれてきた。

「もし神が私たちに滅びをもたらそうとしているなら、誰がそんな言葉を言えるでしょうか」。
でも神は、良きことを願って私たちに近づいてくる方です。
だから、「お言葉通りになりますように」と言えた。

神の業は良いものです。
それを信じているから、端の場所に立っていられた。

今日も誰かの見えないところで動いていること、気づかれずに祈り続けていること。
それは、弱いからではありません。
端の場所から始まる神の業に、あなたが加わっているということかもしれません。

考えてみましょう

自分には「半分しか見えていない」と感じることがあるとしたら、その見えていない残り半分を、少し手放して想像してみることはできるでしょうか。

参考礼拝メッセージ

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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