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毎日、誰かのために動いている。
祈り、見守り、気を配り続けている。
それでも「これで本当に十分なのだろうか」という問いが、ふと心をよぎることはないだろうか。
「彼は主の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩んだ。右にも左にもそれなかった。」
18年間、きちんとやってきた王が気づいたこと
ヨシヤという王がいた。
8歳で王になった。祖父も父も「主の目の前に悪を行った」と記されるほど、ひどい王だった。だからこそ周りの人々は、幼いヨシヤを守り、支え続けた。
書記官シャファンは信頼に足る人物だった。大祭司ヒルキヤも宮をきちんと治めていた。職人たちも忠実に働き、精算の必要もないほど誠実だった。そういう人たちに支えられながら、ヨシヤは18年間、右にも左にもそれずに歩んできた。
誰が見ても、整った、穏やかな歩みだった。
ところがある日、宮の補修工事の最中に「律法の書」が見つかった。
読まれた。
そしてヨシヤは衣を引き裂いた。
「自分たちは、まだ不十分だった」と。
18年間、誠実にやってきた。周りの人たちも忠実に働いてくれていた。それでも、神がデザインした姿と見比べた時に、足りていないものがあった。長いこと忘れ去られていた「過ぎ越しの祭り」が回復され、異教の神々への礼拝の場が取り除かれていった。
夏休みに持ち帰った上履きを洗ったら、真っ黒な泡が出てきた。そしてすすいだ時、白かった。「あれ、こんなに白かったんだ」と気づく。灰色が普通だと思っていたのに。
神の言葉に照らされるというのは、そういうことだと思う。
「自分に関わりのある大切なこと」として受け取ること
ヨシヤにはいくつかの選択肢があった。
気づかないふりをすること。「私には関係ない、次の世代に伝えておこう」と言うこと。「必要な時にまた読もう」と先延ばしにすること。
でも彼はそうしなかった。
これは自分と関わりのある大切なことだと受け取った。自分の非を認め、ここから取り組みを始めていった。
問題を我が事として抱え続けるのは、しんどいことだ。答えが出ないまま祈り続けるのも、しんどい。子や孫のことで「もっと何かしてあげられれば」と思いながら、でも何もできないままでいるのは、特にしんどい。
それでも、「これは私に関わりのある大切なことだ」と、その問いを手放さないでいること。それ自体が、すでに何かを動かしている。
「不十分だった」は責めではなく、始まりのことば
ヨシヤが衣を引き裂いたのは、責められたからではない。
神の言葉に照らされて、「自分たちにはまだすべきことがある」と気づいたからだ。その気づきは、絶望ではなかった。そこから高きところが取り除かれ、忘れ去られていた祭りが回復された。
「これで十分ではなかった」という気づきは、今日からの一歩を生む。
18年間誠実にやってきたヨシヤでさえ、そこから新しく始めた。長年積み重ねてきた歩みが、無駄だったのではない。その土台の上に、さらに本来の姿へと近づいていく。
今日、神の言葉にふと心が引っかかる瞬間があるとしたら。それは「責め」ではなく、「始まり」のサインかもしれない。
考えてみましょう
心の中で「あっ」とセンサーが働いた瞬間に、スイッチを切って見送ったことが、最近あるとしたら——それは本当に切ってよかったものだったか、それとも本当は向き合うべき何かだったか。
参考礼拝メッセージ
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

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