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誰にも気づかれないまま、今日も動いていませんか。職場でも、家庭でも、教会でも。当たり前のようにこなして、でも「十分やった」とはなかなか思えない。そんな日々の中で、神への祈りさえ「足りない気がする」と感じることはないでしょうか。
聖書箇所(ルカ17:5-10)
「私どもは役に立たない僕です。しなければならないことをしただけです」
「してもらったら」「したから」——その祈りの形
交換条件付きの祈り、という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
「神様がこうしてくださったら、私はできます」。「私がこれだけ祈ったのだから、どうか答えてください」。この二つは、形は違っても同じ構造を持っています。どちらも、神様との間に「取引」を持ち込んでいます。
ルカ17章で、弟子たちはイエスに「信仰を増してください、そうしたら私たちにもできます」と願いました。心からの切実な言葉です。でもイエスの答えは少し意外なものでした。「すでにあなたの中にあるものを数えなさい。それで十分なのです」。
足りないものを補ってもらってから動こうとする。その前提を、静かにひっくり返されたのです。
しもべは感謝を要求しなかった
7節からのたとえ話にも、もう一つの交換条件が出てきます。
1日中畑で働いたしもべが夕方帰ってきます。くたくたです。そこで主人の食卓に「私はこれだけ働いたのだから」と席を求めることはできない、とイエスは言います。
これを読んで、ちょっと冷たいと感じますか。でも話の焦点はそこではありません。イエスが指しているのは10節の言葉です。「なすべきことをしただけです」。このしもべは、働いた対価として特別な報いを要求しません。その日すべきことをして、帰ってきた。それだけです。そしてその姿に、何か清々しいものがあります。
評価されることを期待せず、感謝を条件にせず、ただ自分の持ち場を果たす。そんな働き方を、あなたはずっとしてきたのではないでしょうか。目立たないところで、毎日。
神の愛に「条件」はない
では、なぜ交換条件付きの祈りが的外れになるのか。それは、神がすでに無条件で愛しておられるからです。
うまくいっている時も、こんなはずじゃなかったと思っている時も。教会にいる時も、職場で疲れ果てている時も。信仰が強い時も、「なぜこんなことばかり」と感じている時も。神は変わらない愛で、あなたの歩みに伴っています。
そのお方に、まだ何か足りないかのように条件を提示する必要はありません。「すでに与えられているものを書き留めてごらんなさい」とイエスは言います。大きなことでなくていい。今日誰かと交わした短い言葉でも、ふと感じた「守られている」という静かな確信でも。
誰も気づかない場所で、あなたはなすべきことをしてきました。それは取引の材料でも、評価を求めるカードでもありません。ただ、それで十分なのです。神はその歩みをすでに知っておられます。
考えてみましょう
今日、誰にも気づかれなかったかもしれない「なすべきこと」が一つあるとしたら——それを神の前に静かに置いてみたとき、あなたの心に何が残りますか。
参考礼拝メッセージ
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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