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毎日きちんとやっている。なのに誰かに指摘される。あるいは、心のどこかがずっとひっかかっている。そのざわつきを、あなたはどう受け取っていますか。
聖書の言葉をどうぞ。
私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなた方は主の命令を捨て、あなたはバアルの後についていきます。
(列王記第一 18章)
問題の根源は、どこにあるのか
「お前がイスラエルを煩わせているのだ。」
王アハブは、預言者エリヤの顔を見るなりそう言い放ちます。3年間、雨が降らなかった。民は苦しんだ。その原因は、エリヤが余計なことを言ったからだ、と。
でもエリヤは静かに返します。根源はあなたにある、と。神を捨てて別の神に仕えるようになった。そこから始まったことだ、と。
アハブにとってエリヤは、まさに「煩わしいもの」でした。3年間、何一つ平和を乱さなければよかった。うまく折り合いをつけながらやっていけていた。なのにエリヤが来て、根っこのことを問うてくる。
これは聖書の昔話ではありません。
正しいことを指し示すもの、本来あるべき姿に立ち戻らせようとするもの、それを「煩わしい」と感じる。これは、人間の心に深く染み付いた反応です。
「煩わされるべきこと」と「そうでないこと」
ある日、線路沿いの道で一時停止を怠った運転手が、パトカーに止められました。「車は来ていなかった。安全確認もした。なぜ」という気持ちが、どこかに生まれます。でも、その「止まれ」には理由があった。小さな積み重ねが、やがて大きな事故になる。だからこそ、そこに線が引かれていた。
「ああ、この煩わしいもの」と感じた。でも、煩わされるべきことだったのです。
信仰の歩みの中にも、これがあります。神様の語りかけが心にひっかかる。自分の内側にある何かが明るみに出される。それを「うるさい」「細かすぎる」と感じることがある。でも、そのひっかかりこそが、根源を示しているのかもしれません。
問題の場所を、外に探し続けているとき。「誰かがこうしてくれたら」「状況さえ変われば」と思い続けているとき。エリヤの言葉が静かに問いかけてきます。根源は、どこにあるのか、と。
これは責め言葉ではありません。「あなたは間違っている」という告発でもない。ただ、正しく煩わされることが、信仰の歩みそのものだということです。心がざわついているなら、そのざわつきを無視しなくていい。それはあなたの中の何か大切なものが、静かに声を上げているサインかもしれません。
考えてみましょう
今、あなたが「煩わしい」と感じていることの中に、実は自分が本当に大切にしているものが映し出されているとしたら、それは何でしょうか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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