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正しく生きようとしているのに、どこか「ここでいいのか」と感じている。
そんな場所で、神の声は聞こえてくるのでしょうか。
「わたしはあなたとともにいる。」(出エジプト記3章12節)
40年、「関係ない」場所で生きたあとで
モーセという人物がいます。
彼は生まれた瞬間から、「本来いるべき場所」にいられませんでした。殺されないように川に流され、エジプトの王女に育てられた。本来の仲間のところではなく、異国の宮殿で40年を過ごしました。
40歳のとき、彼は仲間のために立ち上がります。虐げられているイスラエルの人々を助けようと、エジプト人を打って殺した。ようやく「本来いるべき場所」に戻ろうとしたのです。
しかし仲間は彼を受け入れませんでした。「誰がお前を裁き司にしたのか」と言って。
エジプトの王にも命を狙われた彼は、ミディアンという土地に流れ着きます。そこで羊を追いながら、さらに40年を過ごしました。イスラエルのこととは無縁の、ただの日常を積み重ねながら。
80歳になったモーセは、その日も羊を追っていました。牧草を求めて、西へ西へ。気がつけば、だれも来ないような山の奥に来ていました。
そこで、火がついているのに燃え尽きない柴を見つけます。不思議に思って近づいたとき、聞こえてきたのは自分の名前でした。
「モーセ、モーセ。」
「ここにおります」と言える場所
モーセは答えます。「はい、ここにおります。」
この「ここ」は、本来いるべき場所ではありません。思い描いていた場所でも、自分が選んだ場所でもない。失意のまま流れ着いた、ただの羊飼いの現場です。
それでも神は、その場所で語りかけました。整った礼拝堂でも、正しい心の状態でもなく。「こんなはずじゃなかった」という場所で。
そして神は言います。「わたしが降ってきたのだ」と。
遠くから見物しているのではない。民の苦しみを見て、叫びを聞いて、痛みを知って——そして「降ってきた」と。神は座ったままではなく、足を向けてこちら側に来たのです。
「あなたが何者か」は問題ではない
「お前が行って、民を救い出せ。」神にそう言われたモーセは、こう答えます。
「わたしは一体何者なのでしょう。」
40年前なら、勢いで飛び出していったかもしれません。でも今は違います。仲間に拒絶された記憶がある。40年、無関係な場所で生きてきた。もう資格も力も、何もない。
この問いは深夜に繰り返す問いと、形が似ています。「私は本当に役に立てているのか。」「これだけやっているのに、なぜ届かないのか。」「私は何者なのか。」
神の答えは、その問いをすり抜けるようなものでした。
「わたしはあなたとともにいる。」
あなたの能力を問いません。あなたの実績も、資格も、今の状態も。「わたしが遣わすのだ」というのが根拠であって、「あなたが何者か」は条件ではない。
役に立てているときだけ、正しくあるときだけ、語りかけられるのではない。「こんなはずじゃなかった」という場所にいる名前を、神は呼ぶのです。
考えてみましょう
今日、「自分はここにいていいのか」と感じた瞬間があったとしたら——そのとき私は、何を根拠にして自分の存在を支えようとしていたでしょうか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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