どうも、早起き牧師の中澤信幸です。
2017年11月30日木曜日、第204回目の放送です。
何を引き換えにしても惜しくないほどすばらしいもの、というイエス・キリストのたとえ話を紹介します。
Podcast: Download (Duration: 6:34 — 4.5MB)
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[note]
- 神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう
- 盛大な宴会、大勢の招待客が招かれた
- それぞれの理由で来るのを拒んだ
- 貧しい人、体が不自由で困難な生活をしている人が招かれた
- 無理矢理にでも宴席に連れてこられた人もいた
- 招待客で食事をともにできる人はいない
- 理由はそれぞれあるけれど、あまりにもすばらしすぎる機会なのに…
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コメント
おはようございます。ちょっと今日のお話は、私にとって難しかったのですが、キリストが言った、「最初に招かれていた客の中には、一緒に食事をする人がいない」というのは、実際の私たちにとっては、どういう意味なのでしょうか。
神の歩み、正しい道、というのが示されているのに、色々理由をつけてその道を進むことができない、という意味なのかな、なんて勝手に思ったりしたのですが…
あとは、貧しい人とか、体の不自由な人達がその後招かれたということは、そういう方の方が救われる、ということなのか、など、色々考えてみたりしました。
「最初から招かれていた人」「無理やり宴席に連れてこられた人」というのは、私達の中でどういう人をさしているんでしょうか。
色々質問ばかりですみません。
みおつくしさん、コメントありがとうございました。
わかりにくいのは、私の説明が悪かったからです、すみません。
このたとえ話のメインのポイントは、「せっかくの招きなんだから断らないで」です。
書いてくださったとおり、招かれているのに、いろいろ理由をつけて断ってしまうような、私たちに語りかけています。
それを強調するために、「招かれた人ではなくて、招かれざる人たちのほうが宴席につく」とか、「無理矢理にでも連れてこられる人が宴会に来る」とか、そういう要素が加えられています。
なので、あまり最初に招かれたのが誰、あとからの人たちは誰、というふうに、無理矢理にこじつけなくてもいいでしょう。
ただ、当時の状況を考えると
というふうに考えることができるでしょう。
少しは理解の助けになったでしょうか…